資料)1965年のシナリオ作法書 by新井一

投稿者: | 2012/04/27

シナリオセンターの新井一氏が「シナリオの基礎技術」を世に出す前に、月刊シナリオ誌で「どんな本を読んだらいいか」と題したシナリオ作法書の紹介を連載していた。私が持っているのは「シナリオ構造論野田高梧W)」「シナリオ第一課(小林勝)」くらいだが、この紹介文を読むだけでも充分にタメになる。

シナリオの基礎技術」(初版1968年)には、「映画制作法講座」(クレショフ)、「戯曲の技術」(フライターク)、「シナリオハンドブック」、「テレビ台本作法」(グリーン)、「シナリオ講話」(マリオン)、「シナリオ論」(倉田文人)、「映画脚本構成論」(安田清夫)からの引用がある。

以下、4回の連載を引用し、資料とします。(自炊ってヤツね)

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どんな本を読んだらいいか
シナリオ作法書の書誌的研究(一)
シナリオ ’64/12

シナリオ構造論(野田高梧)シナリオ入門(野田高梧 他)シナリオの話(新藤兼人)

私は過去13回シナリオ研究所の「シナリオの基礎知識」なるものを担当している。それは、表紙に絵を描いてはいけないとか、人物表の書き方には、こう言う順序があるのだとか、ト書は原稿用紙の何字目から書いた方がいいとか、あるいはセリフの二行目にわたったものは一字さげて書いた方が見易いとか、一見誰でもが知っているような阿呆なことをしゃべりつづけて来た。
全くシナリオの本質には関係のない事である。そこでは「意識の流れが映画シナリオに及ぼしている影響」もなければ「新しきドラマツルギーの行方」も語られない。
それは、シナリオの入門書にもなければ、講座のどの講師もしゃべらないからである。
しかし、シナリオ・コンクールに応募してくる数多くの、あるいは、映画会社や、シナリオライター諸先生に持ち込まれるそのほとんどが、全く出鱈目である。
「そんな形式的な事はどうでもいいのだ。問題は内容だ」これも全くその通りなのであるが、私はそうは思わない。もし、楽譜の五線紙が、六線あったら、どんな名曲も伝えられない。自分の思想を正しく伝えるには、正しい伝達方法を馳駆しなければならない。
こんな事を力んで言う私に、編集部は「よしわかった。そいつを書け」と言って来た。
「それでは」と言って、私は入門書の多くを書架からひっぱり出して読みかえして見た。
だがその時、私の頭をかすめたものは、何と多くの入門書がかかれている事だろう。シナリオ作法書にしても、日本、外国、そして戯曲作法から、小説作法まで、及べば膨大なものである。
なるほど、私のところへくるシナリオを書きはじめたいと言う人が、何をよんだらいいのかときまって質問してくる事を思い出した。そこで急に書誌的にこれらを研究して見たくなった。
迷える羊たちの便宜にもなるだろうし、未開拓のこの方面の基礎でも打っておけば、さらに発展してこれをやってくれる人もあるだろう。意味のない事ではない。と独り合点して、急遽論題はそっぽにそれてしまった。
迷惑なのは読者と編集部かも知れぬが、以上の心理的経過を御察しあってしばらく誌上を汚させて頂ければ幸甚である。

前置きはさて置いて、早速はじめよう。先程も書いた通り、その数は膨大である。まずシナリオと限定して日本からはじめたい。しかも入門書というか作法書に範囲を縮少する。一冊の本にならず、入門的な事を書いた映画論もあるが、この場合は除きたい。

《日本の部》

シナリオ教室
八住利雄W/昭和39年9月30日初版/ダヴィッド社/281頁)

シナリオ作家協会理事長であり、現役第一人者として活躍しておられる著者が雑誌「シナリオ」に二年間にわたり連載されたものに、上梓のため新しく書き下ろしたものを加えている。

I 作家の心構えについて
II シナリオ・ライターになるためには?
III シナリオとは何か?
IV シナリオの壁
V 初心の心得
VI シナリオと演出
VII テレビと映画

以上七章にわかれ、一章と二章では、シナリオ・ライターとしてのあゆむべき道を、自分の歩んだ道を率直に披瀝し、忠告を与えている。例えば「一方職業人としての位置を確保してから、シナリオ界に新風を吹きこむ諸君が…(弟子入りをした場合)最も大切なことは、いつまた、その師匠または先生に別れを告げるかということである。すなわちもう、この人からは何も学ぶべきことはないと考えたら、決して未練をのこしてならぬ…(略)…諸君がすべてを吸収しつくしたと感じた時は、逆にその師匠または先生の方から吸収がはじまる時だということも忘れてはならない」こんな大胆で、しかも、親切な忠告は、業界の裏表を知りつくした権威ある著者にしていえることで、正に人生読本といえるであろう。掬すべきである。第三章ではエウレイノフのもつ意味をとき実例をあげ、「とことんまで追いつめて、それを書ききるのが、シナリオ・ライターの正しい態度であろう」と姿勢を正し、映画の著作権に言及する。若いシナリオ・ライターたちのために残すべきものとして著作権の確立をねがう。
そして、それらの若いシナリオ・ライターのために、第四章ではいかにこの壁を破るべきか、ソ連のシナリオ志望者のために書いたエウゲニイ・ガプリロヰチの文章を引用しながら、第五章において、性格、主題、筋の転換、二種の行為、展開、省略法、ダイアログ、ナレイション、音について、脚色について、と語りついで行く。第六章シナリオと演出、第七章テレビと映画で、業界で今日問題になっているところを取り上げている。

シナリオの設計
(岡田晋/昭和38年7月20日初版/ダヴィッド社/237頁)

「日本映画の歴史」(三一書房)の著者で日本大学芸術学部講師、シナリオ研究所講師をしている氏が、雑誌「シナリオ」に書いた「シナリオの設計」(1961年8月号)と「新らしいドラマの構造」(1962年5月号)とシナリオ研究所の講義をまとめたものである。

I シナリオを考える基礎
II ドラマの変貌
III 新しいシナリオ構造
IV 現代を描くシナリオ設計
V のこされた問題

の五章に分かれ、映画の歴史から、説き起して、現在に至るまで、いかに映画が変化して行ったかを表現内容から解明しようとしている。

串刺し構成:図説

その解明の方法として著者は、多くの図表を馳駆しているのが特長である。例えばネオ・リアリズムをダンゴの串ざしとして上の図のような図式を「戦火のかなた」の構成として説明する。
この方法は、ネオ・リアリズム以後のヌーヴェル・ヴァーグやポーランド映画、アラン・レネ、ミケランジェロ・アントニオーニ、イングマル・ベルイマンといった人々の作る新しい映画を語り、さらにのこされた問題として、ショット、シーン、シークエンス、シーンの長さとモンタージュ、回想の問題、構成と計算の思想を示唆している。シナリオ作法書というより「ダンゴの串ざし」平易な言葉による新しい映画理論書である。

シナリオ構造論
(野田高梧/昭和27年8月5日初版/宝文館/279頁)

シナリオ作家協会会長として知られ、昭和27年初版から今日まで、すでに第十八版を重ねた、シナリオ作法書として最も多くの志望者に読まれ、現在も読みつがれている。第十八版には決定版と銘が、打ってあるが、本書のみならず正にシナリオ作法書の決定版ともいえる宝典であろう。
「シナリオ」創刊号から連載していた随想を、昭和23年、その前半をまとめたものといわれる。
随想として連載されたが、内容は、手をとるような方法論であることが、多くの志望者に喜ばれる所以であろう。
序説、概論、基本I、基本II、構成、局面、映画的構成、性格、と分類され、すべての項目とも、世阿弥の花伝書を初め、フライタークの「戯曲諭」フランセス・マリオンの「シナリオ講話」小林勝氏の「シナリオ第一課」川端康成氏の「小説の構成」等、その他、非常に広範囲の傍引とともに、著者の実作からくる経験によって実証して行く論旨は、誰もが納得せざるを得ないであろう。
それだけにわかりいいとともに、初心者には読みすごしてしまうような所、しかも他のシナリオ作法書にないような珠玉のような、言葉も見すごしがちであろう。たとえば、コンストラクションの中で、「物語の中のある一つの出来事を一つの情景と現わすか、または人物同志の会話として片付けてしまう問題」この場面の表にするか、裏にするかというような実作中必要な事でありながも、他の理論家のつづる作法書には見られない言葉がさり気なく語られるのは本書の特長である。
オーソドックスのシナリオ作法書として、今後も、若いシナリオ・ライター志望者を親切に導きつづけるであろう。

シナリオ入門 (現代教養文庫127)
(野田高梧 他/昭和30年11月25日初版/社会思想研究会出版部/195頁)

野田高梧氏他となっているが、執筆者は野田氏の他、小林勝、倉田文人、新藤兼人、長江道太郎氏いずれもシナリオ研究に一家言をもち、それに関する著書を出しているべテランである。
野田高梧氏がまず、シナリオの方法で、前述の「構造論」とはちがった引例等によりわかりやすい小論にまとめあげている。
小林勝氏は、氏の最も得意とする構成論をうけもっている。氏が数年前に上梓した「シナリオ第一課」に重複しないようにこまかい神経をもちいている。
「まず書くべきである」ことを劈頭に述べているが、こういう忠告こそが、本当に初心者にとっては必要なことなのである。さらに、「悪構成法」として、初心者がー度は落ち込んでひどい目に会うというリレー式構成法をとりあげて注意しているが、こうした注意はシナリオ入門書にはほとんどない。独特のものである。
ついで倉田文人氏が「首相官邸」「裁きは終りぬ」「セールスマンの死」「ノンちゃん雲にのる」そして「愛情の瞬間」「エデンの東」等の実際の作品を拉して来て、これに丁寧な分析を加えながち、書き方の順序を述べている。新藤兼人氏担当は「脚色について」で長篇の場合を自ら脚色した「源氏物語」に例にとり、態度、内容の解釈、脚色上の技術、セリフの統一の面から論じ、短篇の場合をやはり自ら脚色した、「足摺岬」で、内容的に発展させる方法を説いている。さらに戯曲からの脚色に及び、最後に調査の是非を語っている。実作上、大きな参考になると思われる。
最後に「戦後の作品解説」は、最も内外の作品に接している長江道太郎氏の「〈1〉セミドキュメンタリ的なもの、〈2〉実験的な映画感覚、〈3〉伝統的なリアリズム、〈4〉日本的なリリシズムの本体、〈5〉戦争とヒュウマニズム、〈6〉歴史映画といわれたもの、〈7〉時代に対するクリティシズム、〈8〉サティリカルな精神と態度」といった分類は、おのずから、それぞれの分野の代表的話題作をとりあげている努力は、研究の足がかりとして貴重なる文献である。

シナリオの話 (現代教養文庫117)
新藤兼人W/昭和30年3月15日初版/社会思想研究会出版部/222頁)

著者が、この本の目的について「野田高梧氏の『シナリオ構造論』はシナリオというものを正面から取っ組んで解剖された日本では最初の労作で、シナリオとはどう言うものか、を知るには最もよい本だと思いますが、この本はどちらかといえば、シナリオを志す新人よりも、現在シナリオを書いている現職のシナリオ・ライターが読まなければならないような本です。私のこの本は、もっとやさしい、もっと初歩的な立場に立った、一人のシナリオ・ライターの仕事の仕方に、もとずいた具体的な仕事の話なのです」といっているが、現在では、野田氏の「構造論」とともに、すでに、二十版近い版数を重ねた、ベスト・セラーの双壁である。なお著者が断っているようにすべて話の進め方は具体的な例(新藤氏の場合はいつも自作である)をあげて、それを中心に話をすすめているので、学究的に語っていない。目次をあげて見よう。

1 この本の目的
2 なにをはじめに書いたらいいか
3 シナリオの構成 主題、筋、運び
4 シナリオのセリフ
5 ト書について
6 ファスト・シーンの研究
7 シナリオのオリジナリティ
8 私のシナリオ作法
9 私のシナリオ経験
10 シナリオ用語について

となっており、特に一章を設けてセリフ、ト書について、詳述しているのは、普通の入門書と異った、実作的の働向を示している。巻末に「シナリオ用語」あり。

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どんな本を読んだらいいか
シナリオ作法書の書誌的研究(二)
シナリオ ’65/1〜2合併号

シナリオ第一課(小林勝)映画脚本構成論(安田清夫)

前号では、比較的入手しやすい新刊や、重版のものを紹介て来たが、今回は、いささか古書に類するものを拾って見た。古本屋を漁るのも面白いし、図書館を利用するのもいいのではないかと思われる。
それには、それぞれの時代があらわれて、映画の歴史と共に作法も変化して来ているのを覗えるのも又、楽しからずやである。
では早速初めるとして、その古書の部に入る前に、前号で紙数の関係で、とりのこした最近重刊されたり、刊行されたものを二、三紹介して置こう。

シナリオ・ハンドブック
(大木英吉・鬼頭麟兵・鈴木通平/昭和36年3月31日初刷/ダヴィッド社/二段組220頁)

ダヴィッド社がシリーズで出しているハンドブック叢書の一部門として、他部門と全部、仝じ体裁になっている。ハンドプックと銘打ってあるせいか、恰度手頃な大きさと、製本が堅牢なのがうれしい心づかいである。内容として、

第一部 シナリオとは何か
1 シナリオの本質
2 シナリオの基本
3 シナリオの構造
第二部 シナリオの表現技法
1 台詞
2 ト書
3 性格描写
4 心理描写
5 場面転換
6.時間経過
7 ファースト・シーンとラスト・シーン
8 脚色について
第三部 シナリオ用語とその使い方
第四部 シナリオ制作の実際
1 実際の書き方
2 作家志望者への手紙

となって居り、「あとがき」によると、出版者の注文として『この本一冊あれば、素人でも、シナリオ、テレビドラマがすぐかける重宝な本を作ってくれ』との注文によってかかれたと言っている様に、その実用性のテーマを、各頁に打ち出しているのは、こう言った類書の中でも異色と言うべきであろう。三人の著者が全部「シナリオ」誌の編集長をやっていたり、やっていた人たちなので、シナリオ・ライター希望者の切実なのぞみを、具体的に肌で感じているからであろう。第一部の「シナリオとはなにか」第二部「シナリオの表現技法」について初心者向きによく分析しながらの解説はしてあるが、他の作法書にないわけではないが、第三部の「シナリオ用語とその使い方」となると、他の作法書の附録にある用語集と異なり、映画作家が日用語の様にして、つかう「いって来い」とか「かせ」とか「ふくらませる」とか「よせる」の様な技法上の言葉も一頁以上の説明をついやしているのは、寧ろ、これが、作法となっているのは面白い。さらに第四部「シナリオ制作の実際」は、本書の独壇上で実際に原稿用紙に向って書くときはどうするかと言う様な、全くの初心者に対する注意が、ことこまかく説かれている。ややもすれば、作法書とは言い乍ら、著者の映画理論の展開だったり、寧ろ職業ライターに対する警言だったりする中で、全くの初心者向きと言う点に特長がある。

シナリオ読本
(新藤兼人/昭和35年11月1日初版/白樺書房/358頁)

前回紹介した『シナリオの話』で、全くの初心者のために“シナリオの構成”“セリフ”“ト書”なぞと書いて来た著者が、今度は、「新しいシナリオを書くために」と言う事がこの書の凡てを貫いている。著者の冒頭の言葉を引用して見よう「私はシナリオを書いてきて、念願としていることが、二つあります。第一には、なんとかして新しいドラマを一つ書きたいということ。もう一つ、一人でもよいから新しい人間像を創りだしたいと言うことです、この二つはたがいにからみ合っていると思いますが、とにかく一生をかけてこの二つをなしとげたいと思りているのです。すべての努力はそのためです」
と言う著者は、そのために第一流であったら、常に新しい体験を重ねて行くと同時に「作品は、作家の主張でなければならないのです。自分の主張、考えていることを発表することを前提にして適当な材料をさがし、シナリオを書くと言った態度を忘れてはいけないと思っています」と言う態度に則って、「私の歩んだシナリオの道」の章では、やさしく後輩を励まし、著者の得意の社会劇と京都物については、含蓄の程をかたむけるが、寧ろ初心者には「庶民劇と構成」の章に於ける、「裸の太陽」の実際の構成の仕方や、その創作ノートの披露の方が為になると思うかも知れない。次の「社会劇とテーマ」について「やたらに、テーマ、テーマと力みすぎるのは失敗の原因を作ります。そのようなスキ間を埋めて行くものは、どうしても人間の感情だと言う事になります」と説くあたり、この著者の発言として千金の重みがかかってくる。
そうした著者の貧慾なばかりの新しい指向は、「外国映画の新しいシナリオの方向」を説き「テレピ・ドラマの作り方」にも言及している。

シナリオ第一課
(小林勝/昭和30年2月1日第一刷/宝文館/237頁)

野田高梧氏が、不朽の指導書「シナリオ構造論」を上梓されてから、色々の部分的なシナリオ作法が出たが、纏ったものとして出たのは、これが第二弾とも言うべきもので、「構造論」と共に名著と称すべきものであろう。氏は日活撮影所、東宝等で幾多の残るべき傑作をかき、現在映画倫理規程専門審査員で、毎日幾本ものシナリオに眼を通している、言わば達人である。
「シナリオの書き方については野田高梧氏の著書を初め、いろいろと指導書があるから、私はちょっと違った事を述べて見たいと思う。わかりきった事だから、誰でも承知しているはずなのだが、実は軽々に見のがされていることだ」(「シナリオに志す人のために」より)と言っている様に、なるべく「構造論」にふれない部分で、初心の人にどうしても必要なことを中心としているのが特長である。後記によると、戦前東宝の撮影所で、監督とシナリオの研究生を集めて、養成した時の講義を纏めたもので、解りきった事を解らせるためのノートである。
従って、その説き方も定石を定石通りに運んでいるが、その定石の中にコクがあるのを初心者は掬さなければならない。
初心者がややもすれば忘れ勝ちな「統一について」を重大視し、「美的統一」「変化」「狙い」「三一致」「リズムと速度」「ムード(気分)」「単純化」「ロケイション」と項目をわけ、色々な角度から統一を論じているのは「最も意味のあることである。さらにテーマについては「普遍性」を指摘し、「テーマは具体的に表現し得るものでなければならない」とその「具体性」を論じ「勧善懲悪」「題名」にまで及んでいる。構成についても、野田氏の「構造論」中、発端に於ける50米スタートダッシュ法や、5W法等独自のものがある。ついで箱書の実際を示し、題材の選び方として「新しい」「面白い」「下品にならざるもの」をあげて卓見を示し、「性格」に於いて現在の脚本の性格の稀薄なことを力説しているのも、これから学ぼうとする人々にとって傾聴に値する所説であろう。

映画脚本構成論
(安田清夫/昭和10年7月5日発行/映画評論社)

無声映画の全盛期から、発声映画への過渡期に於けるシナリオ入門書と言うよりは、当時の映画理論の牙城「映画評論社」の映画脚本の構成についての理論的研究書と言った方がいいのかも知れない。しかし書き方は飽くまで作法書式である。当時戯曲からでなく、映画としての作法書を編み出していた事は異とするに足ると思われる。試みに目次を羅列して見よう。そこから内容が窺われるのではないだろうか。

序論
主題
原作とアダプテーション
脚本製作の心構へ
脚本の三要素と三基調
ストォリィの構成(基本と形式)
発端
突発的なもの
漸次的なもの
展開
単一形式
組成形式
罪悪的軋轢の形式
同質的事件の継起
異質的事件の継起
多項的過程
終結
幸福なる終結
疑問符終結
不幸なる終結
没落の種類
没落時に於ける悲劇的人物の心情
劇的闘争
内面的闘争
外面的聞争
対自然
対環境
対人物
対道徳律
対法律、社会の制度規的
解放と抑圧
対照構成
劇人物自身に於ける対照
劇人物と周囲の人物又は境遇との対照
紹介法
時の紹介
場所の紹介
人物の紹介
拡大紹介法、縮少紹介法、遠心的紹介法、求心的紹介法、
形象的耽想法、意味耽想法、集中法、誘導法
省略法
伏線
芝居
字幕
台詞
間と捨て言葉
トーキー脚本の形式と製作
結語

映画脚本の作り方 理論と実際
(仲木貞一/大正14年12月15日初版/弘文社/194頁)

それまで戯曲作法はあったが、映画脚本の作法としでは、前駆的なものである。日本大学映画科の講座を担当していた時のノートを纏めたものと言われている。米国コロンビア大学のフリープルグ博士の心理学及美学上に立脚した映画劇の構造論を下敷にしてかかれたものであり、この時代に於ける映画への関心は、演劇の表現と峻別することによって、映画なるものを探求しようとしているのが、うかがえる。これは今日でも、もう一遍復習する必要がある様である。映画の魅力発見のためにそれはさて置き、そうした意味で綴られた本書は理論部門として「新芸術としての特質」の一項を設け、他芸術(例えば舞台劇、絵画、彫刻、音楽、文学、建築)との差異、及映画との関係を説いているのは意味深い。
そうした映画の本質に近づき乍ら実際では、もうその当時行われたカット・バック手法を、演劇を見なれた著者は次の様に濫用をいましめているのは面白い。
「余りに、この切返しが多いと全く見る者の注意力は、実に労らされてしまうのである。この非難は映画劇製作者はよく聞いておかねばならぬ事である。この切返しの方法は、卓絶した効能のあると同時に濫用は又恐しい結果を引起すものなのである。「切返し」に依って他の場面が表われて、それがために頭の休養をし、同時に先に対する期待を増させる所か、見物の頭を只混乱に陥れる様な事は十分慎しまなければならぬ」こうした作法の他に実例として「青春の墓守」「山暮るる」「三つの魂」等の実例がのっている。

シナリオ入門
(シナリオ研究十人会 編/昭和27年5月20日発行/宝文館/221頁)

昭和13年以来発足、シナリオの重要性を強調して来た「シナリオ研究十人会」が、戦后いち早く、再建、講師を招いて、講習会、講演会、シナリオ教室などを開いた。それらの講演速記を土台にして編集されたものである。従って戦后第一線に活躍された先輩の息吹きが、きこえる様な本である。
シナリオの第一認識(北川冬彦W)、シナリオの重要性(飯田心美)、シナリオの形式(登川直樹)、シナリオの構成(滋野辰彦)、シナリオ第一課(野田高梧)、シナリオの修業(新藤兼人)、シナリオと戯曲(久板栄二郎W)、私のシナリオ経験(植草圭之助W)、シナリオと演出(吉村公三郎W)、俳優の見たシナリオ(沢村貞子、北沢彪)、シナリオをめぐって(飯島正W)、シナリオの二つの要素(大内秀邦)、シナリオと倫理規程(小林勝)
と言った工合である。その他シナリオライターの名鑑がついている。

以上の他に、シナリオ作協発行の「シナリオの書き方」、倉田文人著「シナリオ論」等未だ書きのこした名著もあるが紙数もつきたので日本篇は一応この程度で止めたい。尚、最初にお断りした様に、映画論の中に含まれたものもあるが、ここでは割愛した。

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どんな本を読んだらいいか
シナリオ作法書の書誌的研究(三)
シナリオ ’65/3

シナリオ論(倉田文人)シナリオ講座1(シナリオ作家協会)シナリオ講座2(シナリオ作家協会)

前号で、日本の部を一応ピリオドを打ち、今月号は、外国の部に移りたいと思ったが、熱心な読者から「書誌的研究」と銘打ったならば、「××等がある」の如きはいけないとの御叱りを頂いたので、前号に引続きもう少し日本の部をつづけて行きたい。御了承を乞う所以である。

シナリオ論
倉田文人W/昭和15年4月15日第二刷/第一芸文社/206頁)

嘗ってシナリオ文学運動のリーダーとして脚本もかき監督もした著者が、その実作者の立場を生かして展開する理論は、実作者であるが故に、非常にユニークなものをもって居り、従来ややもすれば、戯曲とシナリオ、演劇と映画の比較の上に立っての研究が、多いその中に、文学とシナリオを追求しているのは、今日でも注目に価しよう。
特に本書のテーマとするところのシナリオに於ける散文精神、そしてその実作的手段として、「シーンとシーンの相剋」をはっきりと言い切っているのは、シナリオ文学運動の同志北川冬彦氏と同氏のみである。散文精神の項を抜粋して見よう。
「文学で言う散文精神とは、文章上の韻文に対する散文でなく、内部に於いて、一切の装飾的なものを排除し、感情的でなく、客観的、批判的に現実を描かうとする精神を指して言うのである。シナリオ、映画もまた、この散文精神を自らのものとしなければならぬことはいうまでもない(中略)シナリオに於いての散文精神、客観的な現実批判は、小説の如き方法を以って率直に述べることも不可能であり、戯曲の如く徹底的に出場人物の台詞に托することも出来ない。シナリオでは、具象性あるシーンと事件の配置、具象性ある人物の点綴によって、その背后に作家の客観的現実批判をひそませる。即ち、作家の現実批判のまなこが、具象的な人物の葛藤となり、具象性あるシーンの組合せとなって表現されなければならないのである」と言って居り、彼はこれを「構成的リアリズム」と名づけ、そしてその表現方法として、
「シナリオに於いては、時間空間の自由性は小説と同様でも、小説の如く、直接、人物の心理を説明し描写出来ない。台詞と外面描写のみを通じて表現される。この点戯曲と同じく思はれるが、戯曲の一場面の中のABCの人物が集まり、直接ぶつかり合って表現されるところを、シナリオでは、その時間空間の自由性を武器として、ABCの人物が各シーンに分散したまま行動し、それらのシーンが相剋し、呼応し、融合して或る観念を生みつつ、所期の表現がなされるのである。シーンとシーンの相剋の表現こそ、小説も戯曲も持たないシナリオ独自のものであると言うのは、それである」と述べ、山中貞雄演出、三村伸太郎シナリオの「百万両の壷」シャルル・スパークのシナリオ、ヂャック・フェエデ演出の「女だけの都」を例にとり、明解な分析をつづけ実証する。
更に、「シナリオ的台詞」「映画と方言」「地の文章」等の項目では、初心者にも当然必要な注意が、説かれている。

映画脚本論 映画劇脚本の理論及実際
(竹田晃/昭和3年2月25日発行/原始社/360頁)

映画形態論「映画十二講」を書いた著者の脚本作法書である。第一篇「映画の本質」から、第二篇「映画劇及其の劇作」となって居り、シナリオ作法上の各項目について網羅してある。第三篇として、「映画劇脚本の実際」として、興業価値から、撮影所への送り方、などまでかいてあり、当時としではハンドブック的なものとして面白い。面白いと言えば、検閲の項に禁止条項が出て居り、「一、皇室若シクハ其御先祖ノ尊影ヲ映出シアルモノ」とか、「観善懲悪の趣旨二背反シ、徳義ニ悖ルモノ」と言った文章が収録されている点、歴史的価値があるかも知れない。しかし独創的な意見はない。

シナリオの構成
(新藤兼人/1959年2月25日第一刷/宝文館/255頁)

「シナリオの話」「シナリオ読本」等、シナリオを書く新人のために、実作を通じて、いくつかの入門書を書いて来た著者が、専らシナリオの構成技術を中心に、書いたものであり、とかく構成に弱い初心者には稗益するところ大であろう。先ず最初に「シェイクスピアとシナリオ」として、ジュリアス・シーザーの構成を取り上げる。
「現在のシナリオの形と、シェイクスピアの戯曲は非常によく似ている。特に似ているのはその展開だ。シナリオには必ず頭と尾があるものだが、シェイクスピアにはそれが明瞭すぎる程はっきりしている。映画のもっとも大切なのは、ファスト・シーンとラスト・シーンだと言われているが、シェイクスピアの諸作は一様にこれに重点が置かれている。映画がストーリーの展開を中心においてドラマを作ることが、シェイクスピアの太い物語性に丁度似かよっているのだ。シェイクスピアの芝居は広く大衆に観せようとして作られたに違いない、野外劇的である。語り乍ら描写すると言うやり方だ。シナリオと同じなのだ。シェイクスピア程、シナリオにとって、そのまま多くの教訓をもっているものはあるまい」と言う明解な姿勢で、分析する。次いで、著者が京都で仕事をしていた時、影響を受けた「溝口的映画の構成」と体験を、悟り乍ら、淡々と語る。更に、自作「裸の島」を分析、セリフのない脚本であるため、映画としての分析には最適である。特に自作であるため構成をして行く順序として、三つに分け「第一はテーマの提出、第二は葛藤と危機、第三はクライマックスと終結、更に、それが、七つの区切り、第1は生括の条件でドラマ提出部、第2部は、展開で貧しさの条件、第3第4は葛藤で、第3は悲劇の伏線となり、第4は悲劇を迎える前の大切な余裕である。第5は危機でクライマック久に追い込む、第6はクライマックス、第7は終結である」等明確に指示しているのは大いに参考になろう、最后に「シナリオの構成技術」として“エデンの東”の分析も図表を入れての懇切を極めたものである。なお、本書で、最も面白いのは、シナリオ散歩と題する構成のための断片のいくつかである。十年余の期間、著者のノートにかきとめたこの短い断片は、短い文章でも掬すべきものは、つきない泉の様なものである。
「シナリオを書くよりもひねりおを書け—-さる大先輩の言葉である。シナリオはひねらなければ面白くない。いいシナリオには、ひねりがきいている。(中略)ひねりすぎてひねり負けする危険性もひねりにはあるわけだ。しかし、ひねり負けするほどの技術をもつ人は、ひねりの価値のわかったたのもしいライターだ」(ひねりおより)、その他(クラヤミの手)(歯切れは悪いほどいい)(職人性)(鬼面人に驚かず)(虚構と真実)(焼火箸は熱い)(ないものは出ない)(死んだ人間は書けない)(害にもなり得るさわり)等四十六の著者のシナリオに対するしぼられた考察がある。

シナリオ講座・全三巻
(シナリオ作家協会 編/1957年12月25日(第一巻)
・1958年1月25日(第二巻)・1958年11月25日(第三巻)/三笠書房/各230頁)

全三巻を通じて、さすがにシナリオ作家協会の編集したものだけあって、当時の(1958年度)時点に於いては、その執筆者は、シナリオライターであると否とにかかわらず一流人を網羅している事はさすがである。

第一巻では
シナリオ発達史(飯田心美)
シナリオと作家
作家と覚悟(小国英雄W)作家と生活(猪俣勝人W)シナリオの独立性(南川潤)
シナリオ勉強(笠原良三W)映画の社会性(新藤兼入)
映画の形式とシナリオの分野
立体映画(細谷辰雄)色彩映画とシナリオ(笠原良三)
「地獄門」の場合(衣笠貞之助W)シナリオと風俗(依田義賢W
メロドラマのシナリオ(岸松雄W
外国映画のシナリオ
ソヴェート映画(八住利雄)アメリカ映画(碧川道夫W
シナリオと他の映画部門との関係
シナリオとカメラ(杉山公平W)シナリオと音楽(清瀬保二W
シナリオとプロデューサー(本木荘二郎W)シナリオと映画的文章(登川直樹)
シナリオと俳優(宇野重吉W
監督からみたシナリオ(吉村公三郎)
シナリオ用語解説

となって居り、シナリオを中心として、シナリオ執筆以前の各部門との相関関係と、シナリオライターとしての決意が、本巻のテーマとなっている。

第二巻では、
なにを書くか(新藤兼人)
シナリオの素材
シナリオは誰でも書ける(八木保太郎W)素材とテーマ(北川冬彦)
素材と「ショウ」としての特性(吉村公三郎)
シナリオ・ハンティング
シナリオ・ハンティング(舟橋和郎W)「どぶ」の場合(新藤兼人)
ストーリー
ストーリーについて(館岡謙之助)ストーリー・テリング(岡田豊)
コンストラクションとその実際
コンストラクションの問題(小林勝)コンストラクションについて(北川冬彦)
シナリオの実際作法
ファースト・シーン(岡田豊)ト書(新藤兼人)新しい時代劇(三村伸太郎W
セリフ(新藤兼人)時間経過(笠原良三)性格描写(新藤兼人)
心理描写(猪俣勝人)洋画のラスト・シーン(植草甚一W
シナリオ創作の苦心談(新藤兼人)
演出覚え書(吉村公三郎)

即ち本巻では、シナリオを実際に書くにはどうすればいいかの実際問題についての特集となっている。実習作法上、これらの類書にないのは、シナリオ・ハンティングの部門と、吉村氏の「素材と“ショウ”としての特性」であろう。

第三巻では、野田高梧、八木保太郎、八住利雄、三村伸太郎、小林勝、岡田豊、西亀元貞の現役最古参と中堅どころ(あとがきに依る)ライター諸氏に岸松雄が司会をしている156頁に及ぶ座談会形式で、日本映画史に残った作品の数々を俎上にのせて、ストーリーの展開、コンストラクション、性格、心理描写等について、出席者諸氏の豊富な経験から、多角的な考察を下しているのは面白い。しかも、この座談会で話題になった作品の人物、等を注として別表に提出している親切はいいが、果して、これらの古い話題が、これらを読む若い人に通じるかどうか疑問である。
この外にシナリオ作家名鑑が附録としてついている。

シナリオ創作の研究
(鈴木通兵・鬼頭麟平・大木英吉/昭和33年6月15日初刷/日月社/354頁)

前号で紹介した“シナリオ・ハンドブック”の著者達が、シナリオ編集部の名で、「シナリオ」に連載したものに加筆して纏めたものである。

猪俣氏が序に書かれた様に「この本は、シナリオを学ぶ人たちのために書かれた、シナリオを学ぶ人たちの本だ。一段高いところから、教え導く種類の本ではない、自分本人がシナリオを学ぶために書かれた本だという点に特色があると思う」と書いてある様に、これは「学ぶ人」のためであって「書く人」のための所謂作法書ではない。従って「リアリズム映画」「メロドラマ」「ホーム・ドラマ」「エロティシズム」「ラヴシーン」「戦争映画」「時代劇」「喜劇」と各ジャンルに亘って、一項目を設けているが、すべて、その発祥から、定義に及ぶ考察の仕方は、従来、こうしたジャンル別に研究が行われていない時、本書は一つの特長を示していると言えよう。
例えば「ホーム・ドラマ」の項をとって見ても「ホーム・ドラマの風土」として、封建的日本の家族制度かち捉え、それが「小市民映画の発生」を促がし、「日常的リアリズムの方法」をとった背景をのべ、その后、戦争への突入によって「戦争とホーム・ドラマ」がどんな姿勢をしたかを、作品によって示し、更に敗戦によって「戦后の思想解放と“妻もの”“母もの”の抬頭」がおこった経緯を語り、ようやく「今日のホ−ム・ドラマの性格」が打ち出されたこと、そして「今后のホーム・ドラマの方向」としては(今日ホーム・ドラマが、庶民の生活の不満を慰める子守歌を歌っている限り、根本的なテーマの追求が果されないことはもはや自明の理のようである。本当に家庭の中の母や妻や、子供たちを一個の人格として、ヴィヴィッドに描き出し、新しい人間の確立を促すためには、家庭に於ける人間関係、それらをとりまく社会現実を見つめ、批判しなくてはならない。その時には、作品は自らホーム・ドラマの狭い枠からはみ出して歩き出すだろう)と結ぶ。
なお、こうしたジャンル研究の他に「シナリオ理論の発展」として、内外の理論書、作法書の紹介をかかげ、「シナリオ作家の系譜」と銘打ち、シナリオ作家の地図も初めての試みである。

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どんな本を読んだらいいか
シナリオ作法書の書誌的研究(四)
シナリオ ’65/4

劇作とシナリオ創作(J・H・ロースン)テレビ台本作法(R・S・グリーン)

今月号から外国の部を紹介することにした。と言っても、筆者に凡ての外国語を読みこなす能力がないので、専ら翻訳書に限定されることを先ず御断りして置きたい。
御断りと言えば、もう一つ御断りして置かなければならない事がある。それは、「シナリオ」の形式に就いてである。われわれが、シナリオと言えば、すぐ本誌にある様な、シーンの指定があって、ト書となり、太郎と花子が、公園のベンチに腰かけている。続いて太郎と花子の会話になると言うのが、いくつか続くと言うのが、一般常識になっている。そうしたものをシナリオとして論じているのが日本の作法書であった。しかし、アメリカでも、ソヴェットでも、そう言う形式のものはない様である。「そんな訳はない映画研究誌に、『外国映画のシナリオ』として、日本のシナリオと同じものがのっているではないか」と疑問をもたれる方があるかも知れないが、あれは、ダイアログだけのものを送って来たものに、映画を見ながらト書をつけて、日本のシナリオ形式にしたものだ。つまり採録と言われるものである。
外国で、シナリオと言っているものは、もっと自由な書き方のプロットに近いものである。(実際にフランセス・マリオンの「シナリオ講話」では、プロットと呼んでいる)
そして実際に撮影するときは、コンティニュティと称する、カット割りの出来たカメラの指定をした台本にする。
そんな関係で、日本の様に、プロットと、コンティニュティの中間を行くものはない。その点を充分気をつけて読まないと、誤解を招く虞れがあるので、敢えて老婆心までに書きしるした次第である。

《外国の部》

シナリオ講話
(フランセス・マリオン【フランシス・マリオン (脚本家)W】/佐々木能理男 訳/昭和13年4月8日発行/芸術社/327頁)

1937年出版されたもので、原題は How to Write and Film Stories で、今流行のハウツーものの先駆とも言えるもので、従って書き方は、理論書と言うよりは、寧ろ作者生活20年(当時)の豊富な体験と薀蓄を傾むけた指導書と言えるのではないだろうか。著者フランセス・マリオンは、その巻頭に作品歴を羅列してあるが、「ビッグ・ハウス」「チャンプ」「鎧なき騎士」「シナラ」等、1915年より37年までに93本を執筆している女流ヴェテラン、シナリオライターである。日本では、とかくヴェテランになると、とかく高踏的なシナリオ諭を展開するものだが、この書では全く実際的立場から論じているのは特長的である。例えば「30頁乃至150頁の映画ストオリは、その作家が「ヒット」作品を書くと言う評判とストオリのなかに含まれている可能性とに応じて200弗から25,000弗までの額で売れるでしょう。二三本満足させるストオリを売った作家は、きっと莫大な給料で契約を申込まれますし、また若しその作品が効果のあるものであれば、その奪い合いが給料を競り上げ、時には、一週1,000弗或いはそれ以上になるでしょう」と言う様な論旨は、日本では一切きかれない。資本主義の発達したお国柄によるサバサバした論旨である。しかもそれでいて、その中で説かれているのは、核心をついている。しかも従来の入門書の如く、導入部、展開部、クライマックス式の図式展開ではなく、いきなり、性格描写、動機づけ、主題、ダイアローグ、ドラマトゥルギー、情緒、共通の誤謬、ストオリ・アイデア、アダプテーション、検閲等の実際に直面する事項に終始して居り、その意見も、「映画ストーリーがもたなければならないのは〈動作する性格〉です」「映画の観衆はストオリに重要な関係をもつ事柄については必ず、自分が目撃者になることを求めます」
「映画ストオリを書くときは、読む人やみる人に感じさせることが、目的であることを忘れない様に、すべての劇の目的は、特定の感情に観衆を連れ込むことです。知性に訴えずに感覚に訴えることです」
と言う様に従来書かれていない極意と言ったものをズバリと言うのは、それこそ、感情に訴えた教本として不朽の名著と言って差支えないのではないでしょうか。巻末に「著者の権利と剽竊」の一項で、著作権を説き、附録に「本書引例作品の解説と梗概」が、60頁に亘って記載され、嘗っての名画の梗概を見ることの出来るのは資料としての価値もあげています。

劇作とシナリオ創作 その理論と方法
(ジョン・ハワード・ロースン/岩崎昶・小田島雄志 訳/昭和33年9月25日/岩波書店/二段組420頁)

原著者ロースンは、劇作家としては「行列聖歌」「出世物語」「進軍の歌」などの戯曲、シナリオ作家としては「封鎖」「サハラ」「北大西洋作戦」また評論家としては「われらのかくれたる遺産」「思想の戦いにおける映画」などの著書をあらわし、多才の人として知られているが、それ以上にアメリカ民主主義の擁護者として世界的にも名を得られ、それは1947年10月からはじまったハリウッドの「赤追放」事件のときに、シナリオ作家協会会長として行なった活動で、彼は有名な「ハリウッドの十人」の一人として、非米活動調査委員会の査問にたいして、人権と思想の自由を守った(訳者あとがき)人であり、理論家としての広い視野と、実作者としての技術的経験を生かし、見事に調和しているところに特長がある。さきに紹介した「シナリオ講話」が、偉大なる師匠的な温さをもって後進者にアドヴァイスするとするならば、本書は実技に於ける体系をもった優秀なる講義に比らべることが出来よう。題名の通り戯作とシナリオの両分野に分けられ、第一篇が「劇作の理論と方法」で、第二篇が「シナリオ創作の理論と方法」になって居り、共に第一部で、歴史を詳述、それぞれの現代に至るまでの視野を広めることが出来よう。この事は、シナリオ実作の上で、何ら必要のない様にとられ勝ちであるが、著者の持つ厖大な資料を著者一流の実作家としての眼によって整理されているので益するところ多大であろう。第二部では「映画の骨組」として、芸術形式としての映画の独自の性質を追求するため、第一章の「動く葛藤」では葛藤の法則が、現代の映画の構成に適用されている形を解剖し、第二章の「映画的行為」ではカメラ、画面の構図、セルロイドにうつされた画面の連続と言う技術的要素を考え、第三章では「サウンド・トラック」を、第四章、第五章ではシナリオの全体的組立方をあつかい、第三部の「映画の構成」では、連続性、提示部、進行部、必要場面、クライマックス、性格描写等の実作的研究に移る。『映画はまず、最初に社会的な枠を設定する。だからして、その映画の提示部は広大な奥行と間口とをもつものである。映画の進行は、主として個人的な葛藤に絞られる。これは、圧縮の場であり緊張の貯和であり、これが必要場面をうちたてるのである。映画のクライマックスは提示部で紹介された各種の行為の糸目をすべて結び合せるものである。つまり個人の意志の葛藤は、社会的力の運動を最大の爆発的な緊張点にたかめ、こうして個々の人間の運命は社会生活の中で、はじめてそのもっとも深い実現あるいは崩壊をとげるのである(374頁)』と言う、社会的な枠の中での人間追求に、今后の映画製作の方向を暗示しているのが、印象的である。なお、シナリオ研究者でも、戯曲の第一部を読むことを、おすすめする。

映画シナリオ論
(エイゼンシテイン【セルゲイ・エイゼンシュテインW】 他/樹下節 編訳/1957年1月発行/理論社/263頁)

本書はソヴェットが、新人シナリオライターの養成と発堀のために、1956年に行った大十月社会主義革命40周年を記念して行ったシナリオ・コンクールの参加者の便宜のために、ソヴェットの著名な映画人たちのシナリオ創造についての諸論文を一冊に纏めて出版した「映画シナリオについて」の中、日本の読者向に編集されたものであり、最近に於けるソヴェットのシナリオに関する映画理論の集大成と見ることが出来よう。

I 映画と文学
1 エイゼンシテインの文学、映画論……ロンム
2 プーシキンと映画……エイゼンシテイン
3 モンタージュ手法の研究……エイゼンシティン
II 映画とシナリオ……ドヴジェンコ【オレクサンドル・ドヴジェンコW
III エピソードの処理……ガブリロヴィッチ
IV 構成の問題……エイゼンシテイン
V 監督とシナリオ作家……ゲラシーモフ
附録「戦艦ポチョムキン」
1 シナリオ
2 一助監督の思い出……アレキサンドロフ
3 偉大なリアリズム芸術作品……フレイリフ
4 世界の反響……ポリヤコフ

となって居り、夫々一流人が、その得意とするところを扱っている。
「モンタージュ手法」でおなじみのエイゼンシテインは、「ポルタワ」のピョートル大帝の出陣の状景を一つ、一つ、ここは大写し、ここはロングと細かい手法を与えて行く。ドヴジェンコが「セリフは表情ゆたかであると共に出来るだけ短かくなければならない」「言葉の過剰をもっとも適確に説明するのは、何と言っても、文学的な考え方の優越、職業的考慮の欠除である」とズパリと言っているのは面白い。
ガブリロヴィッチはエピソードの処理として、「一ばん頻繁におかされる誤謬は、必要もないのに偶然的にエピソードが出されることである。作者はこうしたエピソードを主題中にあるデテールを示すために必要とするのだが、元来、そうしたデテールは、構成部分の一つとして、他のもっと重要なエピソードの中に入りうる態のものにすぎない」と看破している。
エイゼンシテインは構成の問題をとりあげて、「構成と言う用語の逐次的意味が、『比較』『配置』であることを忘れない様にしよう」とプーシキンの悲劇「ポリース・ゴドウノフ」をあげて証明する。
先日来朝した、ゲラシーモフは「監督とシナリオ作家」の関係と打合を具体的に引例して書いている。編集委員をプロデュサーにおきかえれば、日本に就いても種々行われる現象であろう。最後に「戦艦ポチョムキン」のシナリオと思い出がのせてある。

映画制作法講座 I
レフ・クレショフW/袋一平 訳/1954年7月30日初版/早川書房/238頁)

原典は1941年国立映画出版所刊行の「映画演出法の基礎」である。現在同盟各地の映画諸学校の教科書として用いられている。(1941年8月より一年有余にわたって雑誌「映画評論」に約半分が訳載された)
本書は元来、映画学校の監督のためにかかれたものであるが、教科書であるために非常に懇切丁寧にかかれてある。先ず第一章が入門で、映画の基礎的技術を知ることが眼目にかかれて、「音と画像の合併」の仕方や、一本のポジフィルムが出来るまでに、どんな技術的順序をふむかを、かんでふくめる様にかいてあるのは、日本にはないので、シナリオ志願者であってもこの位の事を知って置くためにはいい資料である。第二章として「シナリオ」の部があって、ゴーゴリの小説「タラス・ブーリバ」を絵コンテ入りで説明する。冒頭にのベたが、コンティニュイティとはどんなものか、知る上に非常に役立つのではないだろうか、これがいいかどうかは別として、つまりこうした課程の中に映画は作られて行くことの基礎知識としては適材である。なお教科書であるから演習問題をだしているのは面白い。最後に演技についても、概念を得るにはいい。

映画言語
(マルセル・マルタン/金子敏男 訳/昭和32年2月15日第一刷/みすず書房/二段組204頁)

著者は1926年パリ生れ、ソルボンヌ大学哲学科卒業、本書を出すまでに十年間の資料あつめをしたと言う。映画言語と言う言葉は、映画の表現方法と言う意味である。従って文章の表現方法や、演劇の表現とはちがって映画と言うものを、そのものとして思考し、創造して行く方法をといて行く事から出発しているのは注目すベきであろう。「良い映画は何よりも先ず良いシナリオであり、良いシナリオからは、立派に構成された動きが、自然とみてとれるだけでなく、昂揚した動き、繰り返して言えば真実の人間的価値が見透せるのである」と結んでいるのは印象的である。

限られた紙数の中で、最後に私は、テレビについても書いて置きたい。それはテレビを書かうとする人のためにかかれた本であるが、シナリオ作法書にない、しかも独特の発見がその中に見られ、シナリオを書こうとする人達にも参考になると思われるからである。

テレビ台本作法
(ロバート・S・グリーン/後藤和彦 訳/1958年8月15日/ダヴィッド社/二段組306頁)

従来、演劇の伝統から、ト書と言われ、セリフの補足的描写に終っていた視覚的な面をシャレイドと言う用語の下に、そうした補足的描写から脱して積極的に、「何か」言わんとする視覚言語にはっきり定義づけている等、卓見が散見される。さらに本書の半分を要している「天国への階段」のシナリオを一字一句、分析しているのは、実際的であることも好ましい。

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表参道シナリオセンターでは、脚本のシーン(S#)の場所を書いた一行を《柱》と呼ぶ。《柱》と呼ぶのは、表参道シナリオセンターのローカル・ルールだ。今まで名前が無く、何と呼ぶか、野田高梧さんに訊いてもわからず、新井一さん自らが、《柱》と命名したそうだ。(ジェームス三木W著『テレビドラマ紳士録』での対談で語っている) 教えるための基礎作りとは、こういったことを一つ一つ積み重ねて実現してゆくのですね。頭がさがります。


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