シャレードは生き残れるか?

投稿者: | 2012/05/03

新井一さんの『シナリオ通信講座 課題とテキスト』を読んでいて、はたと膝を打つ、画期的な教えがあった。

敗残兵が、方々転々と逃げて歩くのですが、せめて水が飲みたいという表現をする時、
 「ああ、水が飲みたい」
というのは、直接表現です。つまりません。その時……
 「おい、あの音は川じゃないか」
 「いや……もうだまされないぞ」
これなら、長い間、水、水へとさがして、何回も幻覚に悩まされるほど水を求めていたことが、昔のことまでセリフの中に伺えます。間接表現のおかげです。

この例はスバラシイ!! 流石、新井一!! と感激する!

しかし、…でもね。今や 「おい、あの音は川じゃないか?」 は、回りくどい表現と言われてしまうのではないか? 「ああ、水が飲みたい」 のほうがストレートで、わかりやすいと。

同書で新井一さんはこうも書いている。

映像的な表現を怠って、セリフ劇にたよっているところに堕落があるのです。映像芸術の場合、映像が主であってセリフは、それをさらに明確にする補助的なものなのです。セリフ劇はあくまで演劇的なものであって、映画は映像が主であるべきです。

間接表現ということは、そこに観客の思考が入る余地のあることなのです。観客の思考が入るということは、感動させることができるということなのです。

結局のところ、感情とは、観客の主体性により自分で感じたと思わせるもので、他人が言葉で押しつけるものでは無いということなのだろう。セールスの方法や、説得術と同じなのだ。押し売ったり、命令したりするのではなく、顧客に買いたいと思わせ当人が自分の判断で行動するようにうながす、その関係性こそが大事なのだ。

間接表現は、シャレード(charade)と呼ばれている。ことさら「シャレード」という用語を用いるのは、《新井一》流だ。

テレビ台本作法(R・S・グリーン)

シャレードについて、ロバート・S・グリーンは『テレビ台本作法』で、以下のように定義している。(後藤和彦 訳)

書法の視覚的な面の鍵は、シャレイドです。シャレイドというのはただ次のことを示します。つまり何かを象徴として示す事によって、その言わんとする意味が伝達される、その「何か」なのです。その「意味」はもともとは言葉で述べられたものでしょうが、シャレイドによって、同じ事が象徴的な視覚言語にうつされるのです。

同じ件を、新井一さんは『シナリオ通信講座 課題とテキスト』で、こう記している。

唯一の手引書R・S・グリーンの「テレビ台本作法」の中から定義らしいものを引用すると、
「手法の視覚的な鍵はシャレードです。シャレードというのは、ただ次のことを示します。つまり何かを象徴として示すことによって、その言わんとすることが伝達される。その“何か”なのです」
つまり、枠の中に何かを象徴することによって、観客のイメージを刺激して、その言わんとするところのものを表現するのです。ということは、直接表現ではなく、間接表現によって、的確に表現することなのです。

テレビ台本作法』でR・S・グリーンは、映像/小説/ラジオを比較して、間接表現=視覚表現を示す。

作家が、一人の男が酒を飲みたがっている事を見せたいと思ったとします。これは明らかに一つのセンテンスで言葉として表現出来ます。しかし 「スコッチが飲みたいなあ」 ということを、そのまま視覚的なものでは表わし得ません。

台本の形にしますと、シャレイドは次のようになりましょう。

男が椅子に坐っている。
何かを探している様子
部屋の片隅のバーのショット
立上り、バーの方へ歩いて行き、そこで一杯やる男のショット。

もし、小説家が同じ事を読者に知らせようとしたら、次のように書くでしょう。

ドナルドは椅子に腰かけていた。彼はひどく酒が飲みたかった。部屋をみまわした彼はバーに気がついた。彼はそこに行くと、さっさと一人で飲んだ。

ラジオ作家なら、一人称のナレーター(訳註、語り手)を使って同様の効果をあげるでしょう。

 「私はひどく酒が欲しかった。どうしても一杯やらなくてはすまなかったのだ。
  部屋の隅、そこに私はバーを見つけた。私はそこに行くと一人でやり始めた」

あるいは、ラジオ作家はこの全体を対話でやるかも知れません。

 「一杯のめたらなあ」
 「バーがあの隅にあってよ」
 「そいつは良い、(と行きながら)飲んでもいい?」
 「ええ、……どうぞ」

問題は、テレビドラマ映画の延長ではなく、ラジオドラマの延長にあるということだ。『テレビドラマ紳士録』(ジェームズ三木/映人社)を読むと、倉本聰W氏も、ジェームズ三木W氏も、ラジオドラマの延長だととらえている。倉本聰氏のナレーションの多様は、ラジオドラマ的方法論なのだ。

テレビは聞くものであって、見るものではない

◇ ◇ ◇

シャレードとは別の話ですが、この例も、なかなかわかりやすかった。『シナリオ論』(倉田文人W

シナリオ論(倉田文人)

臺詞は、日常的な、自然なる會話といふようなものでなく、現實のものを一應濾過し、再構成された會話でなければならない。

例A
1.甲「お前、今の話を聞いたか?」
 乙「あゝ、聞いたよ」
2.A「御免、奥さんはゐらつしやいますか?」
 B「女房はありません」
3.女「こんちは、今日は御一人?」
 男「うん、一人だ、奇麗になったね」
4.女「家賃ちやんと拂つてゐる?」
 男「まだ拂つてない」

例B
1.甲「お前、今の話を聞いたか?」
 乙「わしは聾じやねえ」
2.A「御免、奥さんはゐらつしやいますか?」
 B「まだをりません」
3.女「こんちは、今日は御一人?」
 男「一人だつていゝぢやないか。奇麗になったね」
4.女「家賃ちやんと拂つてゐる?」
 男「ちやんと拂つたら、こうして生きちやゐられんね」

(1 ゴーリキィ『どん底』、2,3,4 岸田國士W『運を主義にまかす男』)