映画の記憶……「 小・中・高〜80年代」

日本映画帰らざる日々,自分史,銀河鉄道999,映画撮影

初めて観た映画は何だろう? 記憶では、親戚の家でいとこにもらった割引券がキッカケだった。
その映画は『ガメラ対宇宙怪獣バイラス』湯浅憲明(1968/大映)。

地元の映画館は、県庁所在地 → 隣りの市 → わたしの市、と順にフィルムが降りてくる、3番館に位置していた。「日本映画データベース」で調べてみると、同時上映は『妖怪百物語』安田公義(1968/大映)。幼稚園の夏休みに観たのだろう。

小学生のころに観た映画は何か?

劇場で観たものを「日本映画データベース」から抜き出してみる。(年月日は初公開日)

1968.12.14 妖怪大戦争(黒田義之/大映)
1969.07.20 飛び出す冒険映画 赤影(倉田準二/東映)
1969.12.20 ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃(本多猪四郎/東宝)
1970.03.21 ガメラ対大魔獣ジャイガー(湯浅憲明/大映)
1970.08.01 ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦!南海の大怪獣(本多猪四郎/東宝)
1970.09.23 ママいつまでも生きてね(池広一夫/大映)
1971.07.17 ガメラ対深海怪獣ジグラ(湯浅憲明/大映)
1971.07.24 ゴジラ対ヘドラ(坂野義光/東宝)
1971.09.24 父ちゃんのポーが聞える(石田勝心/東宝)
1972.03.12 地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン(福田純/東宝)
1972.06.24 札幌オリンピック(篠田正浩)
1972.08.12 海軍特別年少兵(今井正/東宝)
1973.03.17 ゴジラ対メガロ(福田純/東宝)
1973.12.29 日本沈没(森谷司郎/東宝)
1974.08.03 ノストラダムスの大予言(舛田利雄/東宝)

3番館なので、「東宝チャンピオンまつり」や「東映まんがまつり」の枠は無く、一般映画と組み合わせての興行だった。「ゴジラシリーズ」は低迷しており、1971年に大映は倒産。アニメブーム以前であり、東映動画の長編アニメはほとんど観ておらず、特撮映画が中心だった。

『ママいつまでも生きてね』池広一夫(1970)

ママいつまでも生きてね』は、私のトラウマ映画!!
主人公の少年が難病(癌)で死ぬのだが、「死」というモノを知らなかった私は、この映画に恐怖した。

中学生のころは、大して映画を観ていない

1974.12.28 伊豆の踊子(西河克己/東宝)
1974.12.28 エスパイ(福田純/東宝)
1976.10.16 犬神家の一族(市川崑/角川映画)
1977.06.04 八甲田山(森谷司郎/東宝)
1977.10.01 幸福の黄色いハンカチ(山田洋次]/松竹)
1977.10.08 人間の証明(佐藤純彌/角川)
1977.12.17 惑星大戦争(福田純/東宝)
1977.12.17 霧の旗(西河克己/東宝)

山口百恵の文芸映画と、シナノ企画の大自然パニック物。……そして角川映画が始まった。

私の映画体験は、<角川映画>である!!

高校生になると……

高校生になると、映画を観る場所を、→ 隣りの市 → 県庁所在地 → 東京!! へと、拡げてゆく。

1978.04.29 宇宙からのメッセージ(深作欣二/東映)……隣市
1978.07.15 キタキツネ物語(蔵原惟繕/東宝東和)
1978.08.05 さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち(舛田利雄/東映)……県庁市
1978.08.19 高校大パニック(澤田幸弘・石井聰亙/日活)……東京(試写)
1978.08.19 帰らざる日々(藤田敏八/日活)
1978.09.23 聖職の碑(森谷司郎/東宝)
1978.10.07 野性の証明(佐藤純彌/角川映画)……隣市
1978.10.07 ダイナマイトどんどん(岡本喜八/大映)
1979.01.20 悪魔が来りて笛を吹く(斎藤光正/角川映画)……東京(試写)
1979.07.14 金田一耕助の冒険(大林宣彦/角川映画)……東京
1979.08.04 蘇える金狼(村川透/角川映画)……隣市
1979.08.04 銀河鉄道999(りんたろう/東映)……県庁市
1979.09.08 エースをねらえ!(出崎統/東宝)……東京
1979.10.06 太陽を盗んだ男(長谷川和彦/東宝)……東京・文芸坐
1979.12.05 戦国自衛隊(斎藤光正/角川映画)……隣市
1979.12.15 ルパン三世 カリオストロの城(宮崎駿/東宝)……隣市
1980.04.01 ツィゴイネルワイゼン(鈴木清順)……東京
1980.04.26 桃尻娘 プロポーズ大作戦(小原宏裕/にっかつ)
1980.04.26 影武者(黒澤明/東宝)……東京
1980.06.26 復活の日(深作欣二/角川映画)……東京
1980.07.26 翔んだカップル(相米慎二/東宝)……隣県

自分を映画に向かわせたモノは何だろうか?

アニメブームからの『銀河鉄道999』と、……『ベルサイユのばら』『あしたのジョー2』の出崎統
角川映画が頂点を極めた『復活の日』と、東宝の森谷司郎作品から……木村大作

1980年代……私は映画を、撮影監督で観ていた。

絵柄を見れば、誰が撮ったか当てられた。

木村大作

『復活の日』深作欣二(撮影:木村大作/1980)
復活の日』(監督:深作欣二/撮影:木村大作/1980/角川映画)

森田富士郎

『伊賀忍法帖』斎藤光正(撮影:森田富士郎/1982)
伊賀忍法帖』(監督:斎藤光正/撮影:森田富士郎/1982/角川映画)

前田米造

『ときめきに死す』森田芳光(撮影:前田米造/1984)
ときめきに死す』(監督:森田芳光/撮影:前田米造/1984)
『そろばんずく』森田芳光(撮影:前田米造/1986)
そろばんずく』(監督:森田芳光/撮影:前田米造/1986)
『マルサの女』伊丹十三(撮影:前田米造/1987)
マルサの女』(監督:伊丹十三/撮影:前田米造/1987)

仙元誠三

『セーラー服と機関銃』相米慎二(撮影:仙元誠三/1981)
セーラー服と機関銃』(監督:相米慎二/撮影:仙元誠三/1981/角川映画)
『ア・ホーマンス』松田優作(撮影:仙元誠三/1986)
ア・ホーマンス』(監督:松田優作/撮影:仙元誠三/1986)
『キッチン』森田芳光(撮影:仙元誠三/1989)
キッチン』(監督:森田芳光/撮影:仙元誠三/1989)

田村正毅

『逆噴射家族』石井聰亙(撮影:田村正毅/1984)
逆噴射家族』(監督:石井聰亙/撮影:田村正毅/1984)

阪本善尚

『ねらわれた学園』大林宣彦(撮影:阪本善尚/1981)
ねらわれた学園』(監督:大林宣彦/撮影:阪本善尚/1981/角川映画)
『異人たちとの夏』大林宣彦(撮影:阪本善尚/1988)
異人たちとの夏』(監督:大林宣彦/撮影:阪本善尚/1988)

長沼六男

『魚影の群れ』相米慎二(撮影:長沼六男/1983)
魚影の群れ』(監督:相米慎二/撮影:長沼六男/1983)
『V.マドンナ大戦争』中村幻児(撮影:長沼六男/1985)
V.マドンナ大戦争』(監督:中村幻児/撮影:長沼六男/1985)
『光る女』相米慎二(撮影:長沼六男/1987)
光る女』(監督:相米慎二/撮影:長沼六男/1987)
『座頭市』勝新太郎(撮影:長沼六男/1989)
座頭市』(監督:勝新太郎/撮影:長沼六男/1989)

東京に出た80年代は、50本→100本→150本→200本と年間に劇場で観る映画の本数が増えていった。

欠かさず観る監督も、森谷司郎・大林宣彦相米慎二・井筒和幸市川準・北野武 と変わってゆく。

相米慎二:『魚影の群れ』(1983)・『ラブホテル』(1985)・『光る女』(1987)
森田芳光:『ときめきに死す』(1984) ・『そろばんずく』(1986)・『キッチン』(1989)
井筒和幸:『(金)(ビ)の金魂巻』(1985)・『二代目はクリスチャン』(1985) ……がマイベスト。

そして、作り手の “映画をつくろう” とする意志に打たれる3本『党宣言』『Ronin』『コミック雑誌』。

『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』森崎東(1985)
生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言
(監督:森崎東/撮影:浜田毅/1985)
『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』河合義隆(1986)
幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』(監督:河合義隆/撮影:押切隆生/1986)
『コミック雑誌なんかいらない!』滝田洋二郎(1986)
コミック雑誌なんかいらない!』(監督:滝田洋二郎/撮影:志賀葉一/1986)

ふりかえると80年代は、多くの萌芽に満ちていた。黒澤明の『影武者』(1980)・『』(1985)が海外資本との提携でつくられ、『戦場のメリークリスマス』(大島渚/1983)・『ブラック・レイン』(リドリー・スコット/1989)のようなグローバルな大作があり、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』(1984)・『となりのトトロ』(1988)、押井守の『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984)、ガイナックスの『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(1987)でアニメーションが子供のもので無くなり、フジテレビジョンは『南極物語』(蔵原惟繕/1983)・『子猫物語』(畑正憲/1986)・『優駿 ORACION』(杉田成道/1988)で品質と興行を両立させ、北野武が『その男、凶暴につき』(1989)を撮る。

『その男、凶暴につき』北野武(1989)
その男、凶暴につき』(監督:北野武/撮影:佐々木原保志/1989)

80年代は、まだ映画の主導権が現場(映画会社)にあった。製作費は、映画館の興業収入で見積られており、TVでの放映料は、おまけの臨時収入に過ぎなかった。80年代後半〜90年前後のバブル景気に、映画への投機が拡大し、TV局が参入する。映画会社も不動産業に走り、製作部門を切り捨て、配給するだけの小屋へと変わる。レンタルビデオ店がチェーンを拡げ、衛星放送による多チャンネル化が始まり、90年代には、とうとうTV放映やレンタルビデオなどの二次使用料が、映画館での興行収入を上回る。資金力が無いのだから、映画会社や製作プロダクションの発言権は失われ、映画を作り続けてきたわけではない “出資者” の声が大きくなる。

それから現在……、技術を伝承するシステムが無いまま、映画は、個々人の技量と人脈で続いている。しがらみも無いし、守らねばならないルールも無い。しかし総合力は無く、個人の力量に左右される。突然に何かが現れるが、持続する力は無い。80年代は “撮影所の人材たち” の最後の輝きだったといえる。