シャレードは生き残れるか?
新井一さんの『シナリオ通信講座 課題とテキスト』を読んでいて、はたと膝を打つ、画期的な教えがあった。
敗残兵が、方々転々と逃げて歩くのですが、せめて水が飲みたいという表現をする時、
「ああ、水が飲みたい」
というのは、直接表現です。つまりません。その時……
「おい、あの音は川じゃないか」
「いや……もうだまされないぞ」
これなら、長い間、水、水へとさがして、何回も幻覚に悩まされるほど水を求めていたことが、昔のことまでセリフの中に伺えます。間接表現のおかげです。
この例はスバラシイ!! 流石、新井一!! と感激する!
しかし、…でもね。今や「おい、あの音は川じゃないか?」は、回りくどい表現と言われてしまうのではないか? 「ああ、水が飲みたい」のほうがストレートで、わかりやすいと。
同書で新井一さんはこうも書いている。
映像的な表現を怠って、セリフ劇にたよっているところに堕落があるのです。映像芸術の場合、映像が主であってセリフは、それをさらに明確にする補助的なものなのです。セリフ劇はあくまで演劇的なものであって、映画は映像が主であるべきです。
間接表現ということは、そこに観客の思考が入る余地のあることなのです。観客の思考が入るということは、感動させることができるということなのです。
結局のところ、感情とは、観客の主体性により自分で感じたと思わせるもので、他人が言葉で押しつけるものでは無いということなのだろう。セールスの方法や、説得術と同じなのだ。押し売ったり、命令したりするのではなく、顧客に買いたいと思わせ、当人が自分の判断で行動するようにうながす、その関係性こそが大事なのだ。
間接表現は、シャレード(charade)と呼ばれている。ことさら「シャレード」という用語を用いるのは、《新井一》流だ。
シャレードについて、ロバート・S・グリーンは『テレビ台本作法』で、以下のように定義している。(後藤和彦 訳)
書法の視覚的な面の鍵は、シャレイドです。シャレイドというのはただ次のことを示します。つまり何かを象徴として示す事によって、その言わんとする意味が伝達される、その「何か」なのです。その「意味」はもともとは言葉で述べられたものでしょうが、シャレイドによって、同じ事が象徴的な視覚言語にうつされるのです。
同じ件を、新井一さんは『シナリオ通信講座 課題とテキスト』で、こう記している。
唯一の手引書R・S・グリーンの「テレビ台本作法」の中から定義らしいものを引用すると、
「手法の視覚的な鍵はシャレードです。シャレードというのは、ただ次のことを示します。つまり何かを象徴として示すことによって、その言わんとすることが伝達される。その“何か”なのです」
つまり、枠の中に何かを象徴することによって、観客のイメージを刺激して、その言わんとするところのものを表現するのです。ということは、直接表現ではなく、間接表現によって、的確に表現することなのです。
『テレビ台本作法』でR・S・グリーンは、映像/小説/ラジオを比較して、間接表現=視覚表現を示す。
作家が、一人の男が酒を飲みたがっている事を見せたいと思ったとします。これは明らかに一つのセンテンスで言葉として表現出来ます。しかし 「スコッチが飲みたいなあ」 ということを、そのまま視覚的なものでは表わし得ません。
台本の形にしますと、シャレイドは次のようになりましょう。
男が椅子に坐っている。
何かを探している様子。
部屋の片隅のバーのショット。
立上り、バーの方へ歩いて行き、そこで一杯やる男のショット。
もし、小説家が同じ事を読者に知らせようとしたら、次のように書くでしょう。
ドナルドは椅子に腰かけていた。彼はひどく酒が飲みたかった。部屋をみまわした彼はバーに気がついた。彼はそこに行くと、さっさと一人で飲んだ。
ラジオ作家なら、一人称のナレーター(訳註、語り手)を使って同様の効果をあげるでしょう。
男 「私はひどく酒が欲しかった。どうしても一杯やらなくてはすまなかったのだ。
部屋の隅、そこに私はバーを見つけた。私はそこに行くと一人でやり始めた」
あるいは、ラジオ作家はこの全体を対話でやるかも知れません。
男 「一杯のめたらなあ」
女 「バーがあの隅にあってよ」
男 「そいつは良い、(と行きながら)飲んでもいい?」
女 「ええ、……どうぞ」
問題は、テレビドラマは映画の延長ではなく、ラジオドラマの延長にあるということだ。『テレビドラマ紳士録』(ジェームズ三木/映人社)を読むと、倉本聰氏も、ジェームズ三木氏も、ラジオドラマの延長だととらえている。倉本聰氏のナレーションの多様は、ラジオドラマ的方法論なのだ。
テレビは聞くものであって、見るものではない。
シャレードとは別の話ですが、この例も、なかなかわかりやすかった。『シナリオ論』(倉田文人)
臺詞は、日常的な、自然なる會話といふようなものでなく、現實のものを一應濾過し、再構成された會話でなければならない。
例A
1.甲「お前、今の話を聞いたか?」
乙「あゝ、聞いたよ」
2.A「御免、奥さんはゐらつしやいますか?」
B「女房はありません」
3.女「こんちは、今日は御一人?」
男「うん、一人だ、奇麗になったね」
4.女「家賃ちやんと拂つてゐる?」
男「まだ拂つてない」
例B
1.甲「お前、今の話を聞いたか?」
乙「わしは聾じやねえ」
2.A「御免、奥さんはゐらつしやいますか?」
B「まだをりません」
3.女「こんちは、今日は御一人?」
男「一人だつていゝぢやないか。奇麗になったね」
4.女「家賃ちやんと拂つてゐる?」
男「ちやんと拂つたら、こうして生きちやゐられんね」
(1 ゴーリキィ『どん底』、2,3,4 岸田國士『運を主義にまかす男』)