俺の青春映画『サード』『帰らざる日々』
映画『ゴールデンスランバー』を観た際に気になった役者がいた。
どこかトボけていて、スローモーな動きなのだが、妙な存在感がある。
劇場から帰宅して、ネットで調べた……。
アチャ〜 永島敏行かい!!
てっきり新手の小劇場系の役者だと思っていたら、ナンダ! あの丸顔はッ!!
私にとって、あこがれのヒーローというものは、青春時代に存在しなかった。タレントや有名人で、その人を真似て、生きる指針にするなどということは、考えもつかなかった。
映画が世の中を知る教師であり、映画がいろいろな生き方があることを教えてくれた。
その10代後半の時期、自分にとって、自分の心の裏側に隠し持っている、痛みと不安を共有してくれる映画、それが、『サード』と、『帰らざる日々』だった。その主役が、永島敏行!!
『サード』(1978)の監督は、東陽一。音楽が田中未知。くすんだ音色のシンプルなミニマル楽曲が響くなかで、延々とランニングシーンが続く、このラストは素晴らしい。
走ることが、人生のメタファーなのだ。
同じ所を回り、速い人と遅い人、続く人と続かない人の、実力差が明確に突きつけられる。
その残酷さ。しかしそこから逃れることはできず、そこで自分自身を真摯に見つめられる人と、逃げることばかり考えている人の、差が出る。
観ながらいつも、「オレは2Bだッ!!」と叫んでしまう。
主人公のサードから1周遅れながらも、走り続けなければならない2B(吉田次昭)。常に遅れながら、ヨタヨタ走っている2Bは、まさに私自身だ……。
主人公のサードが、2Bに言う。「走れよ、自分の速さで!」
……残酷である。残酷だ。ひとより遅くしか走れないのに、走ることをやめさせてもらえない。それが生きることだと退路を断たれる。
『帰らざる日々』(1978)は、城戸賞受賞の中岡京平『夏の栄光』が元になっており、監督の藤田敏八と共作で、大巾に改稿されている。
回想形式の構成で並列して描かれる、今と高校時代が上手く交錯し、切なさと焦燥を生む。
主人公のライバルであり親友である江藤潤が、不具になり足に装具をつける。
当時、足にギプスをつけることの多かった私にとって、江藤潤は将来の私であり、不具の人間がどう屈折し落ちぶれてゆくかの見本だった。
青春映画として『サード』も『帰らざる日々』も優れているが、私自身が気になる対象は、主人公ではなく、ヒロインに次ぐ3番目の位置にくる、主人公の友人である、挫折した友だち役だった。
主人公のネガであり、主人公のようにタクマシサや幸運が得られない、潰された敗者という存在……。
さて、この2作品は、女優陣が魅力だ。
田舎暮らしから脱出しようとする、『サード』の森下愛子。
仕事に出た都会で打ちのめされ田舎に戻っていた、『帰らざる日々』の竹田かほり。
考えてみると青春にとって、田舎にいるか、都会に出るかは、大きな選択だと思う。
青春とは、世界が広がることへの、期待と不安の時期ではないか? 逆に、期待と不安が入り交じった日々をおくっていたら、それは青春と言えるのではないか?
『帰らざる日々』のヒロイン、浅野真弓は、私たちの間では、NHK少年ドラマシリーズ『タイム・トラベラー』の島田淳子として知られていた。芳山和子の役である。
原田知世の『時を駈ける少女』(1983)は単独で熱狂的ファンを生んだのではない。
- 角川映画が、大作期からプログラムピクチャー期へ移行しながら、着実に固定客をつけていた。
- 監督の大林宣彦が、『HOUSE』から『ねらわれた学園』へと作品をグレードアップしながら、尾道三部作の前作『転校生』の出来が良かった。
- 『時を駈ける少女』の前に、少年ドラマシリーズ『タイム・トラベラー』があった。
浅野真弓に魅力を感じていた少年たちが、『時をかける少女』を観て、原田知世にハマったのだ。
青春映画というのは、人によって時代によって異なるのだと思う。
映画を見始めの多感な時期に、たまたま出会ってしまう未知な何か。それがその人にとっての青春映画なのだ。
のちになってそれが名作かはわからない。だから傑作である必要も無い。
出会うか出会わないか。その何げないキッカケで、その人にショックを与え、人生を変化させる。それが映画の良さであり、存在意義だと思う。